
身体とこころの安心をお届けし、一人一人にあった最善の治療を!
院長 渡辺 俊一(わたなべ しゅんいち)
SHUNICHI WATANABE
開業後の今でも鹿児島県民総合保健センターの胸部X線および胸部CTの読影医を続けています。胸部X線は毎週800~1000例前後、胸部CTは毎月30例前後読影しています。鹿児島大学在職中より読影医を30年近く続けていますので胸部X線は120万例以上読影したことになります。肺癌の外科治療を志し呼吸器外科医の道を歩みましたが、胸部X線検診が私のライフワークとなりました。この豊富な経験を活かして今後も地域の呼吸器科領域を中心に診療を続けていきたいと思っています。もちろん呼吸器科以外に外科・内科を標榜していますので一般的な外傷などの外科的処置や風邪、インフルエンザ・コロナの診断と治療、高血圧や脂質異常症、糖尿病等の内科疾患の診療も行っています。また、来院が難しい患者様には訪問診療も行っています。
私は昭和49年(1974)に防衛医科大学校(第一期生)に入学しましたが、当時は反戦・平和で学生運動が盛んな時代でしたので私の選択は極めて異例と思われました。私の本籍が山口県萩市川島であり、曾祖父(正確には曾祖父の弟)が松下村塾出身の渡邊嵩蔵(天野清三郎)で明治維新で活躍し、それを引き継いだ祖父そして父が東京帝国大学卒の職業軍人(軍医獣医)だったという遺伝子の影響が大きいと思います。昭和54年(1979)当時、柳田邦男の「ガン回廊の朝(あした)」というノンフィクションがベストセラーでした。国立がんセンター創設期の癌に取り組む若き医師たちの熱き戦いを記したものです。敗戦後の混乱もようやく落ち着いた昭和37年(1962)、国立がんセンターは国の癌対策の大きな柱として、学閥を超え全国より優秀な人材を集め創設されました。この本には実際に活躍されたがんセンターの先生方の多くのエピソードが綴られています。若き医師たちの癌治療に対する心意気と言いますかそんな熱い思いが伝わってきます。その中の登場人物である尾形利郎先生が国立がんセンターより防衛医大の外科教授に赴任されました。医師を志した時よりなんとなく外科医になりたいと思っていましたが、将にこの先生との出会いが私の医師としての人生を決めました。昭和55年(1980)の卒業で当時は胃癌が最も多く外科医は胃癌を治療する消化器外科が主流でしたが、尾形先生は「渡辺君、これからは肺癌がどんどん増えるので肺癌の外科の時代だよ」と教えて下さいました(渡辺俊一写真参照)。その後、母が病に倒れ親孝行の意味もあり鹿児島に帰り昭和58年(1983)鹿児島大学旧第二外科に入局しました。旧第二外科は平明教授が主催する胸部外科特に心臓血管外科が中心の教室でしたが、一般消化器外科、心臓血管外科、呼吸器外科、甲状腺・乳腺外科、小児外科(現在では各講座ができ細分化されています)のすべてを広く学ぶことができました。入局して数年で、まだ心臓血管外科の知識も十分でない頃、当時としてはまだ珍しかった成書の解離性大動脈瘤の共著(診断と治療・60年・3号,335-337)や大腿動脈血栓症の共著(診断と治療?・60年・3号,65-66参照)を平教授にご指導頂き執筆致しました。教室では5~6年間外科全般の臨床医として手術などの経験を積み外科認定医資格を取るとそれぞれの専門性に別れ学位論文を得るために研究室に上がり自分の進むべき方向を決めます。平教授は後年日本移植学会会長を務めますが、当時から心臓や肝臓の移植を専門に動物実験等を行っていました。私が呼吸器外科志望であることを知り肺移植が私に与えられた研究テーマとなりました。これにより私は呼吸器外科医の道を進むことができました。昭和が終わる1980年代後半、なかなか成果を出せませんでしたが夜中まで肺移植の実験を行いました。一般に臓器の保存は浸漬保存と言って保存液に漬けて保存しますが、肺は腎臓や肝臓などの他の臓器と異なり風船みたいに浮くので均等な保存ができません。そこで液体でなくて空気で冷やす空冷肺保存を考案しました。この肺移植の実験は、きわめて発想がユニークだとの好評を得、平成2年(1990)の日本呼吸器外科学会の約1000題の中から数題の優秀演題に選ばれ学会賞を頂きました(渡辺俊一写真参照)。それまで全くの無名であった私が、いきなりメイン会場で発表することとなり一躍脚光を浴びました。私は肺の移植で学位論文を授与されましたが(渡辺俊一写真参照)、その後も肺移植の実験を発展させ移植関係の学会誌では最も権威があるtransplantationに掲載されました(渡辺俊一写真参照)。肺移植実験から仕事を重ねて、肺移植では私はかなり画期的な実験を行いました。一般には死亡し循環が停止するとその瞬間から臓器は腐り始めるわけですから、循環がまだ維持されている脳死の概念が移植で提唱されているわけです。そこで、心停止後もその状態で臓器保護の可能な状態を我々が行ってきた空冷を組み合わせて考案しました。これは北欧のフィンランドでは実際の人の臨床でこれが応用されています。この研究は文部省の科学研究費Cとして高く評価されました。
学位論文に目途がつくと本格的に呼吸器外科医として多くの症例を経験し、呼吸器外科に関する多くの症例報告をしました(渡辺俊一写真参照)。当時教室では心臓血管外科症例がメインでしたので、肺塞栓症例や深部静脈血栓症も多く、若手の助手として肺繋がりでこれら人工心肺下の肺塞栓摘出手術や下大静脈フィルター留置症例を一身に引き受けました。当時はまだまだこの領域は開発段階にあり和文英文を含めて医学論文を書き血管外科領域でも多くの業績を残しました(渡辺俊一写真参照)。また、胸部や腹部の大動脈瘤に対する大動脈ステントも九州で最初に始めました(渡辺俊一写真参照)。呼吸器外科領域の仕事は症例報告に止まらず、新しい手術術式も開発しました。これらの一部は新聞にも取り上げられました。気管支鏡の治療も得意としておりDumon型ステントを用いて気管支閉塞を改善し人工呼吸器よりの離脱成功例や膿胸治療に用い膿胸を改善させた報告も致しました。これらの多くの手術成績や医学論文により平成13年(2001)7月【医師が薦める日本の名医】に登録されました。また、平成16年(2004)1月【Who’s Who in Medicine and Healthcare(2004 ~)】にも登録されました。そして、平成19年(2007)ケンブリッジの世界の医師TOP100にも選出されました。
院長 渡辺 俊一
院長経歴
1980年3月 | 防衛医科大学校卒業 |
1983年9月 | 鹿児島大学医学部第二外科入局 |
1991年3月 | 国立南九州中央病院心臓血管外科医長 |
1992年10月 | 県立宮崎病院心臓血管外科医長 |
1994年4月 | 鹿児島大学医学部第二外科助手 |
1994年7月 | 鹿児島大学医学博士(医論1012号)【(論文題目)空冷肺保存の実験的研究】 |
1996年7月 | 日本胸部外科学会指導医 |
1997年7月 | 日本呼吸器外科学会指導医日本呼吸器外科学会評議員 |
1999年12月 | 外科学会指導医 |
2000年10月 | 鹿児島大学医学部第二外科講師 |
2001年7月 | 【医師が薦める日本の名医】登録 |
2002年7月 | 日本胸部外科学会評議員 |
2004年1月 | 【Who’s Who in Medicine and Healthcare(2004 ~)】登録 |
2006年3月 | わたなべ医院(鹿児島市紫原)開業 |